経済

「年収の壁」撤廃はパート労働をどう変えるか — 106万・130万円ルール見直しの実像

2025年の年金制度改正法により106万円の壁の賃金要件が撤廃され、130万円の壁の判定方法も変わる。制度見直しの中身と、就業調整・企業負担・国際比較から見た論点を整理する。

西村 拓也経済・金融政策担当

はじめに

配偶者控除や社会保険の扶養認定基準を巡る「年収の壁」は、パート・アルバイトで働く人が就業時間を意図的に抑える「就業調整」の主因として、長年指摘されてきた制度上の障壁だ。2025年に成立した年金制度改正法は、この壁のうち「106万円の壁」の賃金要件を撤廃する方針を打ち出し、「130万円の壁」についても2026年4月から判定方法を見直した [1]。労働力不足が深刻化する中、就業調整という行動変容を政策的に解消しようとする動きが、ようやく制度改正として具体化した局面にある。

本稿は、106万円・130万円という二つの壁の見直し内容を整理したうえで、パート労働者・企業・社会保険財政への影響、そして国際比較から見た日本の位置づけを検討する。

「年収の壁」見直しの中身

106万円の壁の撤廃

従来、厚生年金・健康保険への加入が義務付けられる条件の一つに「月額賃金8.8万円以上(年収換算約106万円)」という賃金要件があった。この基準を上回ると社会保険料の負担が発生し、手取り収入が一時的に減少するため、多くのパート労働者がこの水準を意識して労働時間を抑える行動を取ってきたとされる。2025年の年金制度改正法により、この賃金要件は最低賃金の動向を踏まえつつ、法律公布から3年以内に撤廃される方向が定められた [1][3]。撤廃の判断は、全国の最低賃金が時給1,016円以上に達することを目安に行われるとされ、賃金水準の底上げと歩調を合わせた制度移行が想定されている。

同時に、これまで従業員50人超の企業に限定されていた企業規模要件も、段階的に縮小・撤廃される。企業規模要件が残る限り、同じ働き方をしていても勤務先の規模によって社会保険加入の可否が分かれるという不公平が生じていたため、この見直しは適用対象の均一化という側面も持つ。

この賃金要件は、そもそも2016年の制度改正で社会保険の適用対象を非正規雇用にも広げる際に導入された経緯を持つ。当時は急激な適用拡大による企業負担の増加を緩和する目的で、企業規模・賃金水準による段階的な適用というハードルが設けられたが、その結果として「壁」を強く意識させる副作用を生んだ側面がある。今回の見直しは、当初の激変緩和措置としての役割を終え、より普遍的な適用へと制度を成熟させる段階に入ったと位置づけることができる。

130万円の壁の判定方法変更

「130万円の壁」は、配偶者の扶養に入っている人の年間収入が130万円を超えると、被扶養者資格を失い自ら社会保険料を負担する必要が生じる基準を指す。2026年4月1日からは、この年間収入の判定方法が変更され、従来の「残業代を含めた見込み額」ベースの認定から、労働条件通知書等に記載された「契約上の基本収入」ベースの認定に切り替わった [1]。この変更は、繁忙期の残業によって一時的に収入が130万円を超えても、直ちに扶養から外れることを防ぐ狙いがあり、労働時間を抑制するインセンティブを緩和する効果が期待されている。

首相官邸が示す「年収の壁・支援強化パッケージ」は、2023年10月から先行して実施されてきた当面の対応策であり、事業主による手当支給の助成など、制度の抜本改正が実現するまでの橋渡し的な支援措置として位置づけられてきた [2][4]。今回の年金制度改正法は、こうした当面の対応策を経て、より恒久的な制度設計に踏み込んだものと整理できる。

就業調整とパート労働市場への影響

業種別に異なる影響の大きさ

厚生労働省の資料が示す通り、社会保険の加入対象拡大は、これまで扶養の範囲内で働くことを選んできた層に対し、より長時間・高収入の働き方を選択する余地を広げる制度変更だ [3]。特に人手不足が深刻な小売・飲食・介護などの業種では、既存のパート従業員が就業調整を解除して労働時間を伸ばすことができれば、追加採用によらない労働供給の拡大効果が期待される。

業種による影響の濃淡も見逃せない。介護・医療分野のように有資格者の確保が難しい業種では、既存のパート職員の稼働時間を伸ばす効果が人手不足解消に直結しやすい一方、単純労働の比重が高い小売・軽作業分野では、時給水準そのものが低いため、壁を意識せず働いても年収の伸びが限定的になりやすい。制度見直しの効果は、業種ごとの賃金構造によって濃淡が生じる可能性がある。

労働者の心理的抵抗という壁

一方で、社会保険加入によって手取り収入が一時的に減少する局面が生じる可能性は残る。保険料負担が生じても将来の年金給付増加という形でメリットが還元される制度設計になっているが、目先の手取り減少を懸念する労働者の心理的抵抗は根強く、制度変更だけで就業調整が即座に解消するとは限らない。企業側による丁寧な説明や、収入減少を緩和する経過措置の設計が、実際の行動変容を左右する鍵になるとみられる。

特に、配偶者の扶養に入ることを前提に家計設計をしてきた世帯にとっては、制度変更後も「壁を意識する」という行動様式そのものが簡単には変わらない可能性がある。長年にわたって形成されてきた働き方の慣習を変えるには、制度の恒久化を労働者側が確信できるだけの時間と、実際に手取りが増えたという実感を伴う成功体験の蓄積が必要になるとみられる。

企業負担と社会保険財政への影響

中小企業が直面するコスト増

社会保険の適用対象拡大は、企業側にとって保険料の労使折半負担が増加することを意味する。特にパート従業員比率の高い小売・外食産業では、人件費に占める社会保険料負担の増加が経営コストに直結しやすく、価格転嫁や人員配置の見直しを迫られる可能性がある。企業規模要件の撤廃が中小企業にも及ぶことで、これまで対象外だった小規模事業者ほど、急激なコスト増への対応を求められる構図になる。

大企業であれば、既に多くのパート従業員が社会保険に加入済みであり、追加負担の増分は相対的に限定的なケースが多い。これに対し、従業員50人以下の小規模事業者では、これまで企業規模要件によって適用対象から外れていた従業員が新たに加入対象となるため、保険料負担の増加幅が相対的に大きくなりやすい。人件費に占める固定費比率が高まることは、価格転嫁力の弱い中小事業者ほど収益を圧迫する要因になり得る。

年金財政の持続可能性という論点

社会保険財政の観点からは、適用対象者の拡大は保険料収入の増加をもたらす一方、将来的な年金給付の支払い義務も同時に増加させる。厚生労働省が公表する年金制度改正の全体像は、こうした収支両面のバランスを踏まえた制度設計であることを強調しているが [1]、少子高齢化が続く中で、拡大した加入者層への給付を長期的にどう賄うかという財政持続可能性の論点は、今後も議論の対象であり続けるとみられる。

短期的には保険料収入の増加が年金財政にプラスに働くとしても、加入者が将来受け取る給付額も比例して増えるため、制度拡大が財政収支を恒久的に改善するとは単純には言えない。むしろ、就業調整の解消による経済全体の労働供給拡大や消費拡大といった副次的効果を含めて、制度改正の意義を評価すべきだという見方もある。

国際比較で見る位置づけ

第二稼得者の労働供給を歪める税制

OECDの税制・給付政策分析は、日本の配偶者控除や社会保険の扶養認定制度が、第二稼得者(多くの場合は既婚女性)の労働供給に対して相応の抑制効果を持つことを指摘してきた [5]。IMFの分析も、日本における賃金所得の構造的な伸び悩みの一因として、こうした税・社会保険制度の設計が二次的稼得者の労働時間選択を歪めている可能性を挙げている [6]。既婚女性の労働時間の税引き後賃金に対する弾力性は他の先進国と比べても高い水準にあるとされ、税・社会保険制度の設計変更が労働供給に与える影響は相対的に大きいと考えられている。

崖型設計と諸外国のなだらかな制度

他の先進国と比較した場合、配偶者の収入に応じて段階的に控除額が逓減する仕組みを持つ国は少なくないが、日本のように「一定の収入を超えた瞬間に手取りが急減する」崖型の制度設計は、労働供給への歪みを生みやすいとされる。今回の見直しが目指す「なだらかな移行」への制度改善は、国際的な政策潮流とも整合的な方向性だと位置づけられる。

日本の配偶者控除は2017年度・2018年度の税制改正で控除対象となる配偶者の収入上限を段階的に引き上げてきた経緯があり、今回の社会保険制度側の見直しは、こうした税制側の是正の流れを社会保険制度にも波及させる動きと捉えることができる。税と社会保険という二つの制度が、それぞれ異なるタイミング・異なる基準で「崖」を作ってきたことが、就業調整という行動をより複雑にしてきた面もあり、両制度の整合性を高めることが今後の課題として残る。

注意点・展望

106万円の壁の撤廃時期は、最低賃金の全国的な引き上げ状況に連動するため、地域間で実施時期に差が生じる可能性がある。地方の中小企業ほど最低賃金の上昇ペースが緩やかな傾向があり、制度移行のタイミングによっては、都市部と地方でパート労働者の働き方に一時的な差異が生じる懸念もある。

また、制度変更が就業調整の解消にどこまで結びつくかは、労働者の心理的な受け止め方に大きく左右される。手取り収入の一時的な減少を過度に懸念する行動が続けば、制度上の障壁を取り除いても実際の労働供給拡大にはつながりにくい。企業・行政による丁寧な情報提供と、経過措置の実効性が、制度改正の成否を分ける重要な要素になるとみられる。

配偶者控除・扶養控除といった税制側の基準と、社会保険の扶養認定基準がなお完全には一致していない点も、今後整理が必要な論点として残る。税と社会保険で異なる収入基準が併存する状態が続けば、労働者にとって「結局どこまで働けば手取りが減らないのか」という判断が複雑なままになり、制度改正の効果を減殺しかねない。両制度の基準をどこまで揃えられるかは、今後の税制改正論議の焦点になる可能性がある。

Newscoda の見方

本サイトとして注目するのは、今回の見直しが単なる「壁の引き上げ」ではなく、賃金要件そのものの撤廃という、より構造的な制度転換を志向している点だ。壁の水準を微調整するだけでは就業調整の解消に限界があることは、これまでの「支援強化パッケージ」のような当面の対応策の効果が限定的だったことからも示唆される。賃金要件の撤廃という抜本的な設計変更に踏み込んだことは、政策の方向性としては評価できる。

多くの解説は労働者個人の手取り収入への影響に焦点を当てがちだが、Newscodaとしては、企業規模要件の撤廃が中小企業の経営コストに与える影響こそ、制度の実効性を左右する見落とされがちな論点だと考える。労働者の選択肢が広がっても、雇用する側の企業がコスト増に耐えられなければ、労働時間の拡大そのものが抑制されかねない。

この点で、価格転嫁力の弱い業種への激変緩和措置や、社会保険料負担の急増を平準化する経過措置の設計が、労働者側の制度への働きかけと同じくらい重要な政策課題になる。制度の受益者である労働者側の視点だけでなく、制度を実際に運用する企業側の負担能力を踏まえたバランスの取れた制度設計が、就業調整解消という政策目標の実現可否を最終的に左右するとみている。

今後6〜12か月で観察すべき変数:

  • 全国の最低賃金の引き上げペースと106万円の壁撤廃の実施時期
  • 企業規模要件の段階的縮小・撤廃のスケジュール
  • 社会保険適用拡大に伴う中小企業の人件費負担の実態調査
  • パート労働者の実労働時間・就業調整行動の変化を示す統計

まとめ

「年収の壁」を巡る制度見直しは、2023年からの当面の支援策を経て、2025年の年金制度改正法により賃金要件の撤廃という構造的な転換に踏み込んだ。106万円・130万円という二つの壁それぞれで異なる見直しが進む中、就業調整の解消がどこまで実現するかは、労働者の心理的な受け止め方と企業のコスト対応力の両方にかかっている。国際的に見ても崖型の制度設計の是正は妥当な方向性だが、高齢者就労拡大の政策的限界にも見られるように、労働供給を巡る政策変更は複数の制度が絡み合う複雑な論点であり、今回の見直しも単独では解決しない構造的な課題が残る点には留意が必要だ。あわせて、パート・アルバイトの働き方を巡る規制動向も、労働市場全体の変化を読み解くうえで参照する価値がある。

Sources

  1. [1]厚生労働省 — 「年収の壁」への対応
  2. [2]厚生労働省 — 年収の壁・支援強化パッケージ
  3. [3]厚生労働省 — 社会保険の加入対象の拡大について
  4. [4]首相官邸 — いわゆる「年収の壁」対策
  5. [5]OECD — Taxing Wages 2026: Japan
  6. [6]IMF — Structural Barriers to Wage Income Growth in Japan (IMF Staff Country Reports 2023/128)

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